MJ訃報を聞いて思うこと

 昨日の朝、いつものように「とくダネ!」をつけると、マイケル・ジャクソンの追悼式をやっていた。マイケル・ジャクソンのファンである娘は、テレビ映像に釘付け。彼女はダンサーなので、ダンサーとしてのマイケルをえらくリスペクトしている。ダンスシーンになると、「彼のダンスは完璧。キレはハンパないし、無駄が一切ない」と大興奮。マイケルが、また新しいダンススタイルを考案していたと聞き、「ああ、もったいない!見たかった!」と残念がっていた。

 ところで私は、追悼式の映像でマイケルの棺を見たとき、胸が締め付けられた。あの中に彼の遺体が眠っていると思うと、たまらない気持ちになった。そのときは、なぜそんな気持ちになるのか、自分でもよくわからなかったけれど、今にして思えば、おそらくそれは「あの中にいることが彼に似つかわしくない」と思ったからだろうと思う。ステージの上で、いろんな人が歌ったり踊ったりしているのに、一人で棺の中にいなければならないマイケル。いつも彼は、ステージの上にいる側の人だったのに。

 それにしても、今年は本当にいろんな人が逝ってしまう。栗本薫忌野清志郎三沢光晴中里融司マイケル・ジャクソン。どの人も本当に若いし、これからの活躍が期待されていた。こういう人たちの死が私や世間の人を切なくさせるのは、たぶん彼らが志半ばだっただろうと思うからだ。自分の死を悟った瞬間、彼らが思っただろう「ああ、まだあれもやりたかった」という気持ちを思うと、やりきれないのだ。ただ、本当に彼らがそう思ったかどうかは知らない。もしかすると「やりきった」と思ったかもしれないし、「ほっとした」と思ったかもしれない。いずれにせよ、どれもこれも私の想像にすぎないし、本当のところ彼ら自身、今となってはもう何も思っていないのだろうから、そんなこと想像しても意味がない。…とは思うものの、やはり思いはそこに戻っていく。彼らは最期の瞬間、何を思っただろうか。

 改めて思うのは、死を迎えるとき、自分の人生に満足していたいということ。それはきっと、とても難しいことだろうと思う。やりたいこと、やらなければならないと思うことは、たくさんある。私が死を迎えるとき、それがすべて終わっている可能性は極めて低い。だから、それはきっと「なにもかも全部やりきった」という状態ではない。おそらく「まだやりたいことはいろいろあったけれど、とりあえず自分としては満足だ」という境地だろう。

 では、そう思えるようになるには、どうすればいいか。ありふれた言葉ではあるが、「一瞬、一瞬を精一杯生きること」に尽きるだろう。それは、常に全力疾走するという意味ではない。のんびり生きてもいいし、急いで生きてもいい。遊んでいても、仕事三昧でもいい。幸せでも、苦しくてもいい。どういう状態にあっても、その「今」をしっかり楽しむことができれば、それが「一瞬を精一杯生きる」ことになると私は考える。そしていつもそうであれば、突然死を迎えることになっても、その時きっと「満足な人生だった」と思えるはずだ。

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