私はなぜBLOGを書くのか

MIZUKI Yuu:私はなぜBLOGを書くのか

 4月13日の、水城雄氏のエントリ。


 人はなにかを考えるとき、決して自分ひとりでは考えない。
 だれかに向かって話したり、書いたりする、という行為を通じて、自分の考えを「対外的/客観的」に理解できるようなすじ道として組み立てるのだ。
 ひとりで考えているように見えていても、実は自分のなかでは「もうひとりの自分」との対話がおこなわれている。「もうひとりの自分」とは、好き勝手に抽象的なイメージでものごとを考えている「自我」を客観的に外からながめ、その考えを意味のある論理的な文脈として人にも伝えられる形にまとめる役割の自分のことである。この自分がいなければ、人は言葉を話すこともできなければ、文章を書くこともできない。
 BLOGはそういった「対外的/客観的」姿勢を自分が持つのに非常に便利なシステムである。
 だれかがこれを読んでいる、自分の知らないだれかがこれを読んで私の考え方を理解できるだろうか、あるいは知っているだれかが読んでいる、彼が読んでも不都合はないだろうか、プライベートなフィルターを通してもちゃんと一般的な考えとして私の文章をとらえることができるだろうか。
 ちょこちょこと書きなぐっていても、そのようなチェックが絶えず働いている。
 そうやって私の考えが外に向かって書かれ、それらが大きくまとまってあるひとつの系統を形づくっていく。げんに、いままとめている『現代朗読論(仮)』という本は、ここに書かれた断片がもとになっている。
 BLOGはいまや、私の執筆机そのものにほかならない。

 まったく同意見だ。むしろ、こうした作業なしに自分の考えをまとめられる人がいるということが不思議で仕方ない。自分が感じたこと、あるいは自分が思う道理や合理性について、一人合点して「これが正解」と納得するだけでは、いまひとつ心もとない。客観的にみてもそうだろうか、もしかしてどこかに大きな勘違いがないだろうか、穴がないだろうか。それをひとつひとつ確認するために、人に話すというシチュエーションを想定しながら筋道たてて文章を組み立てたり、実際に話してみたりする。そういう作業なしには、とても「これが私の考えだ」と納得できないのだ。

 私は子供の頃から、自分の考えをまとめたいときには文章を書いていた。とくに大きな決意をするときは、必ずその文章を自分の父親に見せていた。彼は、私にとっては親であると同時に、偉大なる先達であり、理解者であり、戦友だった。だからこそ、彼には自分の考えていることをリアルタイムで伝えたい、そして意見を聞きたいと思っていた。その意見を聞いて、自分の無知さ加減に恥ずかしい思いをしたり、配慮のなさを思い知らされたりすることも、たびたびあった。当時はそのたびにしょげかえっていたけれど、今はこの時間がとても大切だったのだと思う。

 その癖の延長線上に、私にとってのBLOGがあるのかもしれない。水城氏のエントリを読んでいて、そんなことを思った。だからこそ、12年もの間、飽きもせずに書き続けられたのだろう。

 

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