「哲学には向上門と向下門がなければ」(井上円了の活動主義)

竹村牧男先生の講義資料より。井上円了の活動主義について。

余は従来、古今東西の哲学者の諸論もその大要だけ一通り研究し、その帰するところ 人生の目的は活動に外ならぬと自得し、哲学の目的も人生を向上するに外ならぬと知るし、 爾来活動主義をとりて、今日に至るものである。
活動はこれ天の理なり、勇進はこれ天の意なり、奮闘はこれ天の命なり。 活動是天理也、勇進是天意也、奮闘是天命也。
これが余の主義である。すなわち吾人の天職はこの活動によりて、人生を向上せしむる にありと自信している。しかしてその向上は一身より始めて一国に及ぼし、一国より世界 に及ぼすをもって順序を得たるものとし、何人も国家のために尽瘁せよと唱えている。」(『奮闘哲学』より)

この資料について、竹村先生は以下のように解説する。

さらに円了先生は、哲学の帰結は活動主義にあると看破し、「活動は天の理なり、勇進は天の意なり、奮闘は天の命なり」と唱えた。哲学に、向上門と向下門がなければならないとして哲学を現実社会において実践すべきことを強調し、しかも向上門は方便、向下門が目的であることを訴えた。円了先生のこの力強い哲学を、私たちは深く学ぶべきである。

 ※井上円了哲学塾 第1回「井上円了の人と思想」by 竹村牧男より

これについて私は「自身が真理を得た時、なぜそれで満足せず、わざわざ向下門に向かっていくのか。その気持ちはなにか」と先生に尋ねたところ、先生は「悟りというものの中に、慈悲が現れてくる。悟りとはそういうものである」と答えた。

であれば、どこで門を下っていくのか。真理を得たという確証がない限り、門を下ってはならないのか。世の中(あるいはネット)を見渡すと、やたらと門を下って伝えようとする輩が目立つが、彼らはある意味、活動主義なのか。そこに罠はないのか。

 

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