孫が生まれた日の帰り道、なぜ涙がこぼれたか

今日わかったことはうまく文章にできないが、なんとか記録しておかなければと思った。

孫が生まれた日の帰り、なぜ涙がこぼれたのか。去年、今年とたくさんの生と死を目の当たりにした私は、なんとなく命の正体が理解できつつある。それを例えるならば、

* 奇跡のようなもの
* 儚いもの
* 刹那にあるもの
* やがて消えるもの
* 消える運命を抱えて生まれてくるもの

お釈迦様のいう通り、生きることは苦しみである。自分であり続けるということは耐えがたい縛りであり、そこに縛られている限り、この苦しみから逃れられない。なにをしても、因果が付きまとう。生きている限り、我が身から逃れることができないというこの絶望の果てには、闇しか見えない。

残酷なことに、それを知る能力もまた、人間に備わっている。知らずに生きていけばいいものを、気づいてしまったその瞬間から、死によって解き放たれるまで、我が身を呪いながら生き続けるしかない。

それにしても、この底知れぬ苦しみを背負って生まれてくる「命」が、なぜこれほどまでに美しく、まぶしいものなのか。 命そのものは奇跡であり、何ものにも変えがたい宝であるということは、理屈抜きで理解できる。なのに、命を抱えてこの世に生まれるということは、苦しみでしかないのだ。

ならば、人間でありながら人間であることを捨て、命をただ淡々と生きていけばいいとも思う。しかし、この因果な「自分」を生きるからこそ、身をもってこの素晴らしくも凄まじいドラマを経験し、なにかを得ることができるのだ。

私が生まれ、そこから生まれた2つの命が、次の命を育んでいく。そこで繰り返される苦しみや喜びを、身をもって味わうことができるのも、この世を生きてこそ。それを全て投げ出してもいいかと尋ねられると、答えることができない。

命の儚さと輝きを見つめながら、私でありつつ私ではない、そんな在りようで生きられるのであれば、それが一番いいのかもしれない。

私がいることで生まれる数々のドラマをうまく交わしながら、命の営みを間近で見続けるなんてことができるだろうか。もう二度と母と会えない。そのことを思うだけで涙が止まらないというのに。

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