100分DE名著 82 スピノザ「エチカ」のテキストを入手

Facebookで友だちの澄子さんから進められて読み始めたのが、このテキスト。 今、NHKで放送しているそうで、すでに3回目まで来ているとのこと。残念ながら、見逃していた(次回は12月24日なので、なんとしても見なければ!)。

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

 

 彼女いわく

現代の悩める人達に、ぜひぜひ見て欲しい! 冷静に自分の苦悩の原因や「むかつき」を見つめて客観的に分析していくと、自分自身が少しずつ解放されていくというところにグッときました。

とのこと。では読んでみようという気持ちになり、早速テキストを購入。思い立ったらすぐ読めるから、Kindleってやっぱりすごく便利。内容の説明は、少し長いけど公式サイトから引用する。

「知性改善論」「神学政治論」といった哲学史に残る名著を著し、近世哲学の一つの潮流を生み出した17世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。とりわけ彼の哲学は、現代思想にも巨大な影響を与え続け、人間の行為や感情、知性、ひいては社会のあり方にも深い洞察をもたらすものとして今も多くの人々の注目を集め続けています。そんなスピノザが最晩年、自らの哲学的な営為の集大成として、世に問おうとしたのが「エチカ」です。

現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。

私たちが漠然と前提しているものの見方がことごとく覆されますが、そこには不思議にも私たちが日常の中で見過ごしている物事の本質が浮かび上がってきます。とりわけ「意志」や「自由」に関するスピノザの洞察は、精神医療やケアの現場にも新たな知見を与えてくれることもあるといいます。幾何学の方法を徹底的に適用し一見冷めた非人間的な記述とも思えるスピノザの哲学は、深く読解していくと、「人間の幸福」「人生を正しい方向に導く方法」「真の善の発見」といったテーマが貫かれていることがわかっていきます。

哲学研究者、國分功一郎さんは、新自由主義が世界を席巻する中、人間の行為があらゆる領域でマニュアル化され、思考の自由が奪われつつある現代にこそ「エチカ」を読み直す価値があるといいます。スピノザの哲学には、現代では失われつつある思考の本来のあり方や自由の根源的な意味を考えるための重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。

番組では、20年来スピノザを研究し続けている國分功一郎さんを指南役として招き、哲学史上屈指の難解さをもつという哲学書「エチカ」を分り易く解説。スピノザの哲学を現代社会につなげて解釈するとともに、「意志とは何か」「自由とは何か」「人間はどうやって真理を知りうるのか」といった根源的な問題を考えていきます。

www.nhk.or.jp

ただでさえ難解な「エチカ」は、わかりやすく解説されているとはいえ、やはりするすると読み進められるということはなく。今やっと3回目を読んでいるところなんだけど、ここにきてやっとピンとくるようになった。

スピノザいわく「自分の存在を維持しようとする力(=コナトゥス)」がうまく働いているとき、自由になれる。しかしコナトゥスは、身体の条件(たとえば腕は2本、脚は2本というように)を超えることはできない。その条件のもと、その条件に従って手足をうまく動かすとき、私たちは自由が得られるとのこと。

たしかに、人は肉体を持っていて、その肉体の知覚(認知)でしか世界をとらえられない(=環世界)。人は、認知した情報と、それまでの経験をもとに思考し、判断し、行動する。だから、それまでの経験や知覚という枠組みから外れて考えたり、行動したりすることはない。

こう考えると「私って肉体に縛られているから不自由なのよね」って悲観的な気持ちになりそうなんだけど、スピノザは「そこにこそ自由がある」という。では、スピノザにとって「不自由」とはなにか。

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であるといわれる。これに反して、ある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然・あるいは強制といわれる(エチカ・第一部定義7)

ここでは「自由」の反対の概念として「強制」という言葉が使われている。本によると、この「強制」とは、「その人に与えられた心身の条件が無視され、なにかを押しつけられている状態」。

なにかを押しつけてくるのは、自分ではない、外部の存在だ。その前の「自由」の定義では、「自己自身のみによって行動に決定される」と書かれているので、ここで強調されているのは「自分」か「他者」かという違いである。

たとえば、鈴木大拙は「肘、外に曲がらず」という。この意を、秋月龍眠氏の本「世界の禅者―鈴木大拙の生涯」では以下のように説明している。

外から客観的に見る限り、人は業の支配から逃げられない。いわゆる“不落因果”で“因果歴然”の世界、必然の世界がそこにある。しかしこれを内面から見るというと、ここに超然とした那一著が厳存する。その必然の中に“自由”の世界があるのだ。いわゆる“不昧因果”で、そこに真の自由の世界、主体的創造的な世界が開けてくる。ひじは外に曲がらないー“花は紅で、柳は緑”だというのだ。まことになんの造作もないきわめて端的な、それはまったく自明の真理なんだ。“なあんだ、当たり前のことじゃないか”そこに臨済の言う“黄檗の仏法多子なし!”という仔細がある。ひじは外に曲がらないところに、その不自由な必然のところに、真の自由がある。

 

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