テツドク!に参加/「無心ということ」(鈴木大拙)

初めて「テツドク!」というイベントに参加した。「テツドク!」とは、カフェフィロが主催(または共催)しているイベントで、『「哲学者の言葉にふれてみよう」をコンセプトに、毎回一冊の哲学書を紹介し、参加者がそれについて考え、語り合う場』とのこと(当日配布された資料より)。今回、私が好きな鈴木大拙の本が取り上げられるということで参加を決めた。本のタイトルは、「無心ということ」。

【募集終了しました】テツドク! 鈴木 大拙 『無心ということ』~「無心」について考える | Cafe Philo カフェフィロ

鈴木大拙は、もともと「言葉に頼らない(不立文字)」をモットーとする禅を、自らの体験に基づいて、なんとか言葉(日本語と英語)で表現しようとしました。今回は、その大拙が「仏教思想の中心」「東洋精神文化の枢軸」と語る「無心」について考えます。もともと「哲学」ではない「禅」「無心」の体験を、言葉でテツガクするとどうなるか。大拙の『無心ということ』を読みながら一緒に考えたいと思います。なお、テキストはこちらで用意し、わかりやすく解説しますので、気楽にご参加ください。

なにぶん初めての参加なので、どうすればいいかよくわからず、まずは年末から年始にかけて「無心ということ」を読んでおくことにした。薄い本だが、言葉遣いが独特で、すいすい読み進めるというわけにはいかず、結局、昨日追い上げてなんとか最後まで読めたという状況だったが、集中して読んだせいか、いつもよりしっかり理解できた。

会は、14時からスタート。まずは、本日の紹介者である大熊玄さん(立教大学、石川県西田幾多郎記念哲学館副館長)のお話から始まった。本から抜粋されたテキストが配布され、それを読みながらお話を聞く。

そのテキストには、大熊さんのメモやアンダーラインが書きこまれていて、そのメモが理解を助けてくれる。たとえば、大拙はちょくちょく「よいところがある」「ようにも見える」というように、文末が曖昧になっているところがあって、そこに波線が引かれていた。大熊さんの説明によると、「この本が出版されたのが1939年で、2・26事件や日中戦争の時期。そういった国内の状況を鑑みて、いくらか配慮した表現になっている」とのこと。

また、181Pの「そういう風に見られるところがあるようにも思われる」の「あるようにも思われる」にも波線が引かれていて、そのあとに「しかしそれだけとも思われないので」という文章を手書きで挿入している。このように、大熊さんがいろいろ補足することで、難しい大拙の文章が少し読みやすくなるというわけだ。

今回の資料は、「無心ということ」の第五講の一部のみを抜粋していた。つまり、この内容から鈴木大拙が考えた「無心」とはなにかを考えようということである。1時間の大熊さんの解説のあと、10分弱の休憩をはさみ、今度は参加者が感じたこと、考えたことについて話をしていく。挙手して司会がその人を当てれば話すというスタイルではなく、話したい人が自由に話をするというスタイルだったが、特に問題はなくスムーズに進んだのは、参加者がこういった会になれていたせいか。

参加者が話したことは多種多様で、「子供をしつけると、自然と親のバイヤスが子供に植え付けられる。これは有心であるか」「よく差別はよくないというが、差別と区別の違いは何か」「おなかが空いたとき、昔は育てた稲を釜で炊いて食べたが、今はコンビニでおにぎりを買う。これは無心か」「福島原発事故が起きた際、エンジニアが無心であれば、被害は最小に食い止められたのではないか」など、一見(聞)すると大拙の有心・無心に関係ないように思える話もあったが、大熊さんがそこから巧みに有心・無心の話へと導いていく。その話が変化していく過程が特に面白いと感じられた。

今回、無心とはなにか、無心の境地にたどり着くにはどうすればいいかという問いにはっきりとした答えは出なかった。ただ、大熊さんが言うところの「動物的(本能の)無心ではなく、人間的有心でもなく、その2つがあわさった先にある無心」とは、結局「無分別の分別(七十にして己の欲するところに従うて則を超えず)」ではないか。赤子のような無心(=神ながらの生活)を送りながら、数々の悩みや矛盾を感じ、いろいろ考えて進む有心(=人の道)があってこそ、その先に「無心Ver 2.0」とも言うべき境地が開くのではないか。それこそが「人間的無心」なのではないか。

ところで、この図は西田幾多郎と鈴木大拙の生涯の年表である。無二の親友であった2人がどのように関わっていたのかが時系列でわかって実に面白い。

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