「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(帚木蓬生)

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読了。実は二度目の挑戦。前回、中盤の冗長さに負けて読み進むことができなかった。今回も、申し訳ないけど第七章の「創造行為とネガティブ・ケイパビリティ」および第八章の「シェイクスピアと紫式部」は斜め読みさせてもらった。特に八章は、それぞれの作品の要約か解説的な内容だったので、斜め読みでも問題なかろうという判断。私自身のネガティブ・ケイパビリティを試された部分だったように感じた。

以下、読書メモを記録しておく。いつものごとく、本文の一部を引用している。

■はじめに

精神科医である作者は、以前「共感に向けて、不思議さの活用」という医学論文を発見したという。読んでみると、「人はどのようにして、他の人の内なる体験に接近し始められるだろうか。共感を持った探索をするには、探求者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない」と書かれていた。

さらに「フッサールの現象学的還元と、フロイトの自由連想という基本公式は、芸術的な観察の本質を明示したキーツの記述と際立った類似性を有している」とある。そのキーツが詩人について語った部分は、以下の通り。

詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも、詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。

 当時、精神医学の限界に気づき始めていた作者は、この論文を読んで以下のように感じたという。

ここに至って、キーツの真意がようやく読み取れた気がしました。アイデンティティを持たない詩人は、それを必死に模索する中で、物事の本質に到達するのです。その宙吊り状態を支える力こそがネガティブ・ケイパビリティのようなのです。

(中略)

不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいる能力──。しかもこれが、対象の本質に深く迫る方法であり、相手が人間なら、相手を本当に思いやる共感に至る手立てだと、論文の著者は結論していました。

 医学論文を多数読んできた作者だが、「この論文ほど心揺さぶれた論考は、古稀に至った今日までなかった」という。このとき出会ったネガティブ・ケイパビリティという言葉が、作者をずっと支え続けてきたという。

■キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」への旅

このあと、作者はキーツの人生についてとても詳しく説明している。キーツの人生については割愛するが、早くに父と死別し、母が遠ざかった後、キーツを含む兄弟はとても経済的に困窮していたようだ。その後、キーツは外科医として働きつつ、詩を書くようになる。

経済的な困窮の中で、詩作の苦しみからキーツが導き出した概念が「受身的能力(passive capacity)」です。キーツはこれを言い換えて、共感的あるいは「客観的」想像力と言います。これが「エーテルのような科学物質」で、創造力によって錬金術的な変容と鈍化をもたらし、個別性を打ち消してくれるのです。この「屈服の能力(capability of submission)」こそが、個別性を消し去って、詩人は対象の真実を把握できると考えました。

 キーツの手本はシェイクスピアだった。

シェイクスピアを読みふけったキーツは、シェイクスピアが持つ「無感覚の感覚(the feel of not feel)」に気づきます。対象に同一化して、作者そこに介在していない境地を指します。ここにキーツはシェイクスピアの情感的、霊的な偉大さを内在化させたのです。

つまり、キーツはこう考えたのだ。「アイデンティティは対象に近づく邪魔になる。それをもたず、起きたことをただ全て見ることだ」。そうすることで「非二元化」が生まれ、「観察対象と観察者が一体となる」と感じたのだ。

この「感じないことを感じる」や「受動的能力」の概念が、のちに弟に宛てて書いた手紙の中に登場する「ネガティブ・ケイパビリティ」をいう言葉につながっていく。

「リア王」を再読したキーツは、幸福と悲嘆、高揚と落胆、欲望と失望の微妙な境界に気づきます。もちろん、そこには対立する2つのものの変容も含まれます。シェイクスピアにならってキーツも、陽のあたる歓びも人生の深い落胆も等しく、まるでオーケストラのように奏でる能力を獲得します。

 ■精神科医ビオンの再発見

ネガティブ・ケイパビリティという概念がこの世に登場したのは、キーツが手紙に記した一回だけだった。しかし、その170年後、英国のウィルフレッド・R・ビオンという精神科医がネガティブ・ケイパビリティの重要性に気づき、「精神分析の分野で欠かせない概念である」と説いた。ビオンは次々と著作を発表するが、その難解さと曖昧さで精神分析協会の会員を当惑させた。ビオンが重視したのは、あくまでも思考の流れと動きだった。

精神科医ビオンは、動きようのない定理や教則を徹底的に嫌いました。思考も行動も、自由連想のように流動的であるべきだと考えたのです。ビオンが書いた「注意と解釈」のなかで、いみじくもキーツのネガティブ・ケイパビリティを初めて引用しました。

 そしてこの章の末尾で、ビオンは次のように述べた。

ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。

 ■分かりたがる脳

ネガティブ・ケイパビリティを培うのは、「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態だとビオンは断言する。しかし私たちが受ける教育は「記憶と理解、欲望」という路線の上にある。それを後押ししているのは、人の脳だ。作者は「私たちの脳は、ともかく何でも分かろうとします。分からないものが目の前にあると、不安で仕方ないのです」という。

私たちは、訳の分からない対象物を前にしたとき、なんとか分かろうとします。数字がランダムに並べられているのを見るとなにか苛立ちますが、3の倍数が羅列されている規則性に気づくとほっとします。脳がわかりたがっている証拠です。

次に作者は「分かる」ということに対するアプローチを試みる。神経心理学者の山鳥重先生は、脳が理解する、わかるのはどういうことかについて、このように記述しているという。

まず「分かる」には浅い理解と深い理解がある。こまごまとした理解を組み合わせ、重ね合わせた理解が浅い理解です。

これに対して、山鳥先生は発見的理解を推賞します。これには既存の理解や教科書は、あまり役に立ちません。自分で発見していくしかないかたちの理解です。それには自然というモデルが参考になります。普段に検証を重ねることによって、深い理解、発見的理解に到達します。

この見解は、ネガティブ・ケイパビリティを想起させます。今は理解できない事柄でも、不可思議さや神秘に対して拙速に解決策を見いだすのではなく、興味を抱いてその宙づりの状態に耐える。人と自然の深い理解にいきつくには、その方法しかないのです。

 つまり「深く理解する」には「ネガティブ・ケイパビリティ」が不可欠だというのだ。

■寛容とネガティブ・ケイパビリティ

本書では、このあと「医療」や「身の上相談」「伝統治療師」などに活かされるネガティブ・ケイパビリティについて詳細に説明しているが、実例が多いのでここでは割愛する。最終章の「寛容とネガティブ・ケイパビリティ」では、寛容とネガティブ・ケイパビリティの関係について説明されていた。そこで登場するのがマザー・テレサの言葉である。

わたしたちは、非難したり判断したり、
人々を傷つけるような言葉を言ったりすることはできません。
わたしたちは、神がどのようなやり方でその魂に現れ、
ご自分の方へ引き寄せられるのか、分からないのですから。
そうであれば、だれかのことを非難するなど、
いったい私たちは何様なのでしょうか。

ここで私はSNSについて考えた。思えば10年前の東日本大震災以来、なにか大きな災害が起きると、SNSの投稿は「これが正しい、それは間違っている」という主張が増えてくる。自分の意見を述べ、それとは違う意見に対して批判するということがずっと繰り返し行われている。私はずっと「自分の意見を主張したり、反対意見を批判したりしたくなる動機はなんだろう?」と考えていた。もしかすると、それは先述の「私たちの脳は、ともかく何でも分かろうとします。分からないものが目の前にあると、不安で仕方ないのです」ということなのかもしれない。

自分なりに「こういうことかな」と納得したくだりがあったので、最後にその部分を引用しておく。

寛容は大きな力を持ち得ません。しかし寛容がないところでは、必ずや物事を極端に走らせてしまいます。この寛容を支えているのが、実はネガティブ・ケイパビリティなのです。どうにも解決できない問題を、宙ぶらりんのまま、なんとか耐え続けている力が、寛容の火を絶やさずに守っているのです。

 

 

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