【100分de名著】若松英輔 特別授業『自分の感受性くらい』

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若松さんの特別授業『自分の感受性くらい』(100分de名著)のテキストを読了。思っていた以上に収穫あり。これは本編も見てみないと。

 

Amazonの概要は以下の通り。

生きづらさを抱える人へ
なぜ人には詩が必要なのか? 国民的詩人・茨木のり子が遺した素朴な詩は、なぜ日本人の心に響くのか? 「詩」を感じることができれば、言葉は人生を支える糧となる。詩と出会う大切さを知ることで、自分を励ますための言葉が見つかる一冊。

そして目次は以下の通り。100分de名著は全4回なので、こんな感じになっているのだろう。

はじめに──これから詩を書こうとする君たちへ
第1講 詩とは何か
第2講 感受性とは何か
第3講 生きるとは何か
第4講 言葉とは何か

以前、吉村萬壱さんのトークイベントで若松さんのお話を聞いたことがある。そのときのテーマは「原民喜」だった。本書にも「原民喜」の名前が出てきた。よほど気に入られているのだろう。

本書では、学生を対象とした特別授業として、詩の読み方を解説している。その題材となったのが、『自分の感受性くらい』(茨木のり子)だ。若松さんがこの詩を初めて知ったは、「3年B組 金八先生」という学園ドラマの国語の授業だった。はじめて聞いたとき、「私の胸を強烈に打ちました」という。

若松さんは、詩を読む際に「読む」「誦む」「詠む」という3つの「よむ」が必要と言う。「読む」は目で文字を追って読むこと。「誦む」は音読するということ。「詠む」は紙に書いてみるということ。目で読み、音読し、紙に書いてみる。詩は、「読んだら書く、書いたら読む」という往復経験がとても大切だとのこと。

このあと、「感受性とはなにか」「生きるとはなにか」「言葉とはなにか」について話していく。若松さんは、「どう生きるか」の前に「生きるとは何か」という問いが必要になると言う。まるで哲学カフェのようだ。

以下、私が特に気に入ったフレーズを備忘録として残しておく。

古代ギリシャの哲学者にプラトンという人物がいます。彼は、知ることはすべて 想い出すことだと考えていました。

このあと「すなわち、すべてのことは人間の心の中にすでにあって、それを思い出していくことが”知る”ということなのだ」と続く。たしか池田晶子さんも似たようなことを言っていた。「分かる」や「知る」は、なにも新しく理解した、知ったということではない。かつて知っていたことを思い出す、その感覚とよく似ているといっていた。この表現は、私の「分かる」と非常に近い感覚だったので、その後もずっと覚えていたのだ。まさにそれと同じようなことを、若松さんも言っていた。

しかし、「問い」を見出すときに必要なのは「答え」ではなく「応え」「手応え」のような実感です。本当の「問い」と出会うことができれば、その「問い」がみなさんを人生の深みへと導いてくれます。

この文章は、先述の「生きるとはなにか」「言葉とはなにか」という問いを思い出させる。こうした「問い」を生き続けることが重要で、安易な答えを警戒して生きよ、ということでもあると言う。

二人は、死者をいわば、不可視な隣人だと考えていました。「隣人」とはキリスト教の言葉ですが、ここでは「共に生きる人」と理解してみてください。

この二人とは、原民喜と石牟礼道子のこと。原民喜は、広島で亡くなった人のおもいを引き受けつつ、いくつも詩を書いた。石牟礼道子は、水俣病を生きた人々と家族の言葉を受け止めて「苦海浄土」という作品を書いた。

若松さんは、「詩と死者の関係は、切っても切れない」という。詩は、生きている私たちが、亡くなった人と共にあることを教えてくれるのだそうだ。この文章は、私がずっと考えていた「死者と私の関係はどう変化したのか」という問いに対するひとつの答えのようにも思えた。

 

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