半歩先を読む思考法(落合陽一)

読了。落合陽一氏のnote記事を再編集した書籍。まとまっていて読みやすい。落合さんは現代の鈴木大拙と感じた。私の脳の底にずしんと響く。

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以下、マイノートを抜粋してみた。

■第1章 「平成」という永い修行を経て、「令和」への全力疾走

  • この子の身体や脳に一生で生じた多くの体験が刻まれて、それがやがて失われていく瞬間まで意識を高め、社会と接続し、価値を生み出していくことなのか。宇宙にとっては瞬間の情報の演算でしかないようなこのちっぽけな点にも豊かさがあったと信じたいのだろうか。

■第2章 さよなら青春のインターネットの日々よ

  • 自分が興味があること、自分というフィルターを通じた世界の姿については妥協せず、取り繕わずに表現することだ。
  • つまるところ自分の思考と雑談するように文章を書く。雑談するというのは思考の切れ端や自分の身体や文脈と思考の接点を探っていくことに似ている。

■第3章 草鞋を複数履きながら走る日々を実現するには?

  • どういうときにのびのび生きる忙しさがあるのかを考えていた。こののびのびした忙しさというやつは他人と比べるマインドセットからは多分出てこないんじゃないかなぁと思う。
  • ここでストレスが溜まって作業ができなくなったとか、こんな食べ物を食べたら眠くなってしまったとか。そういうことを書き留めるノートを作った(デジタルだけど)。
  • このフレームは正しいのだろうか、今この時間は滞りないのだろうか、のようにちょっと俯瞰して考え続けたり観察し続けたりしていることができる限り余裕がある。
  • この余裕状態、現場で対象に向き合う集中力と、もう一トラック副音声のような思考が共存できる状態が僕にとってはストレスなく思考できている状態になっている。副音声としての自分の声を聞くことを大切にする。羽賀さんとの対談の後に、これが豊かさなのかもしれないと思う日が続いた。

■第4章 誰かに理解されるより先に次の行動に移すこと

  • 「分かりにくいもの」は「分かりにくいものです、考えるところから一緒にやりましょう」と伝えましょうということ。
  • 出来るだけ包み隠さず、変な変換を入れず、自分の中では最大限分かりやすいが、最大公約数は取りに行かない。
  • そんな風には考えていなかったんだけど、それはそれで新しい発見だと思う瞬間を出来るだけ多く味わいたい。
  • 全能感とまっさら感の反復横跳びが思いこむ力と突っ走る力を生むと思っている。まっさら感を劣等感と感じてしまうと、ここが難しいのだと年をとるごとに思ってしまう。
  • 逆に一つにこだわらず総合的に捉えれば全部こなせるのだという自信でもあるのかもしれない。その辺の自分指標は有機的に組み替えていいのだと思っている。
  • 「理解されるのを待っていたら薄まってしまう、成功するまでやっていたら動けなくなってしまう。誰かに理解されるより先に次の行動に移すこと」
  • コンテクストをぶった切って次の世界へ、特に俗人的で社会的な人脈的コンテクストからの超越が必要不可欠なんだと思う。
  • 的外れでも敵が増えても得がなくても何がなんでも違う視点に常に移行し続けるべきなのだと思っている。それはポジティブでかつニュートラルな位置に自分を保ち続けることの方が、物質的人脈的に豊かな老化の中で社会性を維持していくことよりも、僕にとっては重要だからだ。
  • 一周したトピックは捨てないといけない。経済合理的に不利だとしても(研究者だと引用、テレビだと視聴率、マーケだと売上)、捨て続けないといけない。成功することは失敗なのだと認識しなければならない。
  • 長い競争の中で自分の魂の色を模索する作業に価値があると思っている。つまり、結局君はどうしたいのか、なんなのか、世界観は? みたいなことと向き合い続けることができた人は強い。一度、その世界観を構築することができれば、その世界観は更新し続けることができる。
  • 自己肯定と自己否定の間で、世界像を追求し続ける習慣は、自分なりのコンセプトを作り続けることに繫がる。
  • その本人の見ている風景を誰かに伝えようとしている限りは大丈夫だと僕は信じている。伝えようとする努力は社会に影響をもたらすし、新しい構造を作る刺激になるし、回り回って社会に資本を生み出すきっかけや、新しい社会システムだったり、芸術的価値や研究的到達点を生むことになるだろう。
  • やんわりと死生観と共にずっとある。人はいつでも半分死んでるようなものだし、いつでも半分くらいしか生きていない。
  • ただ「このドロドロになっていく状態が死んでいくことなのかもしれない」と思うとイメージはつく。「自分の名前も、自分が何に興味を持っていたのかも、好きなものも、感情も思い出せない平穏な時間」をイメージしろ、と言われればイメージできる。
  • 思い浮かべているものの認識も解けていって、認識はしているけど形のない世界へ行って、音しかない世界へ行って、音のない世界へ行って、そのまま忘れてしまうんだろうな、という感じがある。

■第5章 ぬか漬けにしたピーターパンからは日本の匂いがするだろうか?

  • 本気で課題に取り組む訳ではなくてギャラリーか作品空間かSNSに切り取られるだけで終わりそうな ソーシャルアクション風アート」に僕自身は全く興味がなくなってしまった。
  • 死ぬなら死ぬ、絶望するなら絶望する、作るなら作る、コンテクスト考えるなら考えるで他人に余計な期待をしない、余計なコンテクストを持ってこない、そういう感覚でものを作っている作家さんを見ると癒されるし、自分もそういう非共感性の中で共感を問いたいとも思うんだよなぁ……と本日はこの辺で。
  • この世界に美しいものが存在すると認めていられる間は自分の価値観を守れているんだと思う。
  • 研ぎ澄ました五感を用いて、何かの道具を経由して、世界の存在に接続する。集中力を伴う知覚を切り替えることで何かを呼び起こそうとすることはどんな人にもあると思う。
  • つまり印象だけでなぞる人が多いから新語を作れという話なのかもしれないけれど、新語を作りまくるとそれはそれで話が通じなくなるので悩ましい。少なくとも多くの翻訳者が生まれれば誤読は解消すると信じている。

■第6章 天気の奴隷にならないために

  • 知らないことがたくさんあると生きていることを実感する。
  • 僕が博士課程でやっていたことは、映像と物質の間にあるものはなんだと考えていたことに由来する。映像のようでいて物質であるし、物質のようでいて映像であるものとは何か。
  • 30歳を超えて自分がやるべきことの変化を感じながら、変わらないものは残していこうとも思うようになった。作品と知的興味は失ってはいけないし、逆に分野への愛は自分の中に留めておいてはいけない。年相応に支えていかないといけないし、幼心を忘れないところも残さなければならない。
  • 「自然と調和するアートとテクノロジーのサイクルを作り上げ、人の多様性を拡張し、万物と共感覚の結びつきを持つような社会を作る」
  • 祝祭の失われた風景にコンヴィヴィアリティが失われる。祭りの準備、祭りの体験、その中で得られるコミュニティへの帰属意識。地元の祭りでも文化祭でも運動会でも歓送迎会でもなんでも良いが、集団で集まることを否定した社会で起こるのは、そういった自立共生を育むような祝祭の消失だ。
  • 結局人と人とのコミュニケーションはミームが最強だし、人を見る目と信頼性によって成り立つ関係性を活かしていかないと伝達速度に限界が来るから信頼と現場力と場数を組み合わせながらやっていくしかないと思って人生を生きている。
  • 脳が直列するような並列するような場づくりが一番大切。同じものをイメージできるか。
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