「自分がわかっていない」ことを「わかる」には何が必要か?

今回ご紹介するのは、大前みどりさんがnoteに書いた記事です。

「自分がわかっていない」ことを「わかる」には何が必要か?

先日、友人が「分かった気になっているだけで、なにも分かっていないということ、あるよね」と言っていました。彼が言うには「分かった気がする」という人は、全くわかっていない。では、「分かる」とはどういうことなのか。気になって調べていたところ、この記事にたどり着きまして。

この記事では、2冊の本が紹介されています。大前さんは、この本を読んで「お二人とも同じようなことを言及されているなあと思う箇所があった」と思ったとのこと。それについて、

ついつい「わかった気になっちゃうよねー」という話です。

と書いています。

たとえば「世界の中にありながら世界に属さない」(吉福伸逸)という本には、こんなことが書かれています。

言葉はある種の普遍的な理解というものをわれわれに与えます。物事の共通性をつかまえ、その共通性によってさらに抽象的な概念を使って原理的なものを見出します。ところがそれと同時に、言葉は個々の事象の特異性を除外してしまいます。普遍化・一般化をもたらし、物事のディテールを吟味することを躊躇させてしまうからです。

言葉は、ほかの人になにかを伝えるために使うものです。しかし、言語化した瞬間、なにかこぼれ落ちてしまうものがある。相手が理解できること、つまり共通体験をもとに伝えようとすると、おのずと特異性を除外してしまうことになる。

さらに、言葉を受け取った人は自分の経験をもとに言葉を解釈し直すはずですから、そこにまた別の要素が加わってしまう。とすると、最初の「伝えようとしていたなにか」は、言葉にした時点で変容し、相手に届いた時点でもう一度変容することになります。二度変容するのだから、もうすっかり別のものになっているといっても過言ではありません。

伝えるために言葉を使うのに、言葉を使うことによって情報が失われ、さらに再解釈が加わってしまうのだから、結果的には別のものが伝わってしまう。そう考えると、言葉を尽くして説明しても誤解されたり、行き違いが起きたりするのも、当たり前のことなのかもしれません。

もう1つ、こんな言葉も引用されていました。

日常生活でもセラピー(心理療法)のセッションでも、あらゆる瞬間に、一人の人間が感じたり、理解することをはるかに超えたもの、言葉を超えたものがあるんです。けれども、説明を聞いてしまうと「私は知っている」という気になる。「知っている、わかっている」という意識が経験と自分の間に入ってきて、一種のブロックになってしまうんです。体験的に実感していないままだと、上滑りのような形でしかなくて、みずからにまったくおよんでこないんです。

ここに書かれている「私は知っているという気になる」ということ、私にも覚えがあります。人の話を聞きながら「はいはい、それは知っている。前に本で読んだことがある」と思ってしまうこと、ありますよね。そう思った瞬間、相手が話していることに興味がなくなってしまったり、自分の解釈が一人歩きし始めたりしませんか。

でもそれは「本当に知っている」「本当にわかっている」のではなく、「私は知っているという気にな」っているのだと、作者である吉福さんはいいます。「体験的に実感していないままだと、上滑りのような形でしかなくて、みずからにまったくおよんでこない」。つまり、「本当にわかった」ということにはならないのです。

大前さんが紹介している2冊めの本「かかわり方のまなび方」(西村佳哲)には、こんなことが書かれているとのこと。

経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうことがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。

私は本を読んだり人の話を聞いたりすることがとても好きなので、西村さんの言うように「他人の言葉を通じて知る」ことによって「知った気になる」ことが多いのですが、西村さんによると「自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある」。本を読んで「なるほどね」と理解したつもりになっても、頭の中だけで理解しているのであれば、それは本当に「わかった」ということにはならない、というのです。

では、「本当にわかる」とはどういうことなのでしょう? この記事を読んで、「わかる」について少し考えてみたいと思いました。

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