殺人を犯したのは誰なのか

先月末、笠井潔による「矢吹駆シリーズ」の最新作「煉獄の時」が出版された。私はまだこのシリーズを読んだことがなかったが、ミステリ好きの友人がしきりと褒めるので、シリーズ一作目である「バイバイ、エンジェル」から読んでみることにした。

読み始めて驚いたのは、この作品がミステリというより哲学書に近いということ。探偵役の矢吹駆*1が推理するポイントは「現象学」だった。

彼にとって、犯罪はひとつの事象に過ぎない。彼の興味は、事象の本質を見極めること。だから犯人が誰だって構わないし、犯罪を止める気もない。そもそも善悪の区別はないと考えている。まさに異色の探偵である。

犯罪は犯人によって起きたのか、それとも?

この本を読み終えた私は、犯罪者と犯罪の関係ついて考え始めた。私たちは犯罪が起きたとき、その責を負うべきは犯罪者だと思う。つまり、犯罪者さえいなければその犯罪は起きなかったと。

しかし犯罪機会論の小宮信夫先生によると、犯罪は人ではなく、場所や状況によって起きるという。起きるべくして起きるのが犯罪で、犯人はその一要素に過ぎない。犯人は自分の意思で犯罪を犯したと思っているが、本当に自分の意思なのか。小宮先生の言うように、犯罪が起きる場所があり、条件が揃い、その要素のひとつとして犯罪者が存在するとしたら。

 人間の殺人と、観念の殺人

矢吹駆に戻ろう。駆曰く「人間には自由意志があると考えられていますが、ほとんどの場合、人間の行為は法則の奴隷にすぎない」。殺人も同様で、法則に従って行われるという。

ひとつは、人間による殺人。人間は自己保存本能に規定された存在で、ほとんどの殺人は自己保存。自分が生き残ることが最も重要という原則に従って行われる。もうひとつは観念的な殺人。神や正義や倫理の名において犯される殺人は、観念が人に憑いて実行される。つまり、人間以外のものが犯す殺人であるという。いずれにせよ、人間が自分の意思で殺人を犯すことはないというのが駆の考えだ。

本作では、最後に駆が殺人の本質を見抜き、犯人と対峙して言葉を交わす。その会話は、まるで哲学対話のようだ。

ふたりの会話を読んでいて感じたのは、犯人が大切に抱えてきた「観念」も、結局のところ自己保存の歪んだ形に過ぎないということ。そのことは犯人自身もわかっているが、他にとるべき道がなく、流れに身を任せたのではないか。もちろんこれは私の勝手な推測に過ぎないのだけれど。

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